ヘブル人への手紙の受取手は、厳しい迫害の最中にありました。彼らの中には、キリスト者であるということで、持ち物を奪われ、村から追放され、いわれのない差別を受ける者もいました。ある者は「なぜ、このようなひどい目に遭うのか」というような不安の中に生きていました。キリストの救いに与り教会の交わりの中に生きることで、すべてが順調にいくものと考えていましたが、現実には多くの苦しみに取り囲まれていました。信仰生活の苦難にどんな教育的な意味があるのか、どう受け止めたらよいのか?このような問いに対して、ヘブル人への手紙は試練の中で私たちが「心の元気を失い、疲れ果ててしまわないために」と、主の試練(懲らしめ)をどの様に受け止めて生きていけばよいかを教えています。

1,キリスト者の歩みは、一人孤独な歩みではない。むしろ、「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12・1)と勇気を失うことなく、信仰生活を続けるようにと諭しています。この「雲のように」とは星雲、星の塊です。彼らは単なる傍観者でなく、見物人でもなく、私たちと同じように信仰の走路を生きる人たちです。キリスト者は、一人孤独なランナーではないのです。信仰を同じくする多くの仲間がいるからです。

2,「信仰の創始者であり、完成者であるあるイエスから目を放さないでいなさい。」(ヘブル12・2)と勧められています。主イエスは、ご自分の前に置かれた十字架の道を完走されました。試練の中で、心が元気を失い疲れ果て意気を失わないために、しっかりと主イエスを仰いで生きることです。イエスを見失うことは挫折に繋(つな)がります。

3,日々に受ける試練を宿命的不幸と見るのでなく「主の懲らしめ」訓練として受け取るようにとヘブル書12章6節以下に勧められています。「懲らしめ」の原意は、教育とか鍛練です。ここでは、私たちが日々経験する苦難の問題を、何か根本的に解こうとするのでなく、苦難の実際的目的が、父の教育的訓練にあることを教えています。「主の訓練と思って耐え忍びなさい。」とは、凡人の私たちには厳しい勧めですが、一つ一つが「私たちの益のため」であることを覚え、信仰の正しい道を踏み外すことなく生き続けるのです。

2011年3月6日