使徒パウロが、ピソンという蛇の霊の神託を受けて、占いで金を儲けていた女を正気に返らせたと訴えられた。正当な裁判を受けることなく逮捕され、鞭で殴られ、足かせをはめられ、暗闇の牢獄に繋がれた。怒りが胸を突き上げ、屈辱と痛みの中にいるはずのパウロとシラスが、その夜、神を賛美するのを同じ牢獄の囚人たちが聞き入っていた。その時、激しい地震が起り、つないでいた鎖が切れ、牢獄の扉が全部開いてしまった。囚人たちの逃亡を恐れた看守は、囚人逃亡の罰で死刑執行人の手にかかって殺されるくらいなら、名誉あるローマの軍人らしく自害しようと剣を抜いた。それを見たパウロは、牢獄の奥から「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」(使徒16・28)と叫んだ。つい先程まで囚人として一切の自由を奪われていたパウロが、恐怖と死から全く自由にされた人間としてそこに立っている。パウロの叫びは看守を正気に引き戻した。
人間は環境の辛さや、前途に希望を見出せないという理由で、死を急ぐことがある。死ぬことで、苦痛から自由にされようとする。しかしそれは間違った選択である。「死んではいけない」という言葉は「希望を捨てるな」という言葉に相通じる。希望を捨てない。これこそキリストを信じて自由を手にした者の生き方である。どんな境遇の中でも、荒れ狂う人生の荒波の中でも、決して希望を失ってはならない。パウロは「四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。」と記している。四方八方から苦しめられるということは、戦場で兵士が恐ろしい窮地に追い込まれた時の表現である。敵軍に包囲され、激しい攻撃に打つすべもない、絶体絶命の境地である。パウロはそうした絶対絶命の境地でも、常に希望を捨てなかった。信仰は暗黒と絶望のかなたに、希望の光、勝利のあることを教えている。道は必ず開かれる。この一年、私たちはどのような歩み方をしただろうか。受けた恵みを数えると共に、新しい年が、今年以上に希望と祝福に満ちた日々でありますようにと祈る。
2004年12月26日