今朝は、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入城された日で、群衆が棕櫚(しゅろ)の葉を振りかざして迎えたところから「棕櫚の日曜日」と言います。教会は今日から受難週を迎えます。主イエスは、ニサンの月の一五日(金曜日)、朝の九時ごろ十字架にかけられ、午後三時に息を引き取りました。この間に有名な「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」という、詩篇22篇の神への祈りをもって、神への全面的告白をしています。そして「わたしは渇く。」(ヨハネ19・28)という言葉が発せられました。イエスの口から、生身の人間なら誰でも味わわなければならない、死の直前の激しい渇きの苦しさが訴えられたのです。
一人の男が、葦の棒の先につけた海綿に含ませて差し出した葡萄酒を受けると、イエスは「完了した(すべてが終わった)。」(ヨハネ19・30)と言い、最後にもう一度声高く「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)と叫ぶと同時に、頭をたれて霊を父なる神にお渡しになりました。すべてが終わったのです。
この「すべてが終わった。」というのは、イエスの地上の生涯の終わりを意味するだけでなく、それ以上の意味を持つ言葉でもあるのです。主イエスの死は、一面からみれば挫折と敗北です。しかし、また一面から見れば神の勝利と完成です。
人々が主イエスに、無理やりに負わせた十字架と死に、一体どんな意味があるのでしょうか。主イエス・キリストの死は、神の救いのご計画が、今や「成就した、完成した。」と言うことです。イエスの十字架の死は、ナザレのイエスが死んだという歴史的な事実で終わることなく、この事実の背後に一つの明確な意味を含む死であったのです。それは、父なる神が、人間の罪を贖うために、ひとり子キリストを世に遣わし、私たちの罪のためにキリストを犠牲にして世の罪を贖い、救いを完了したと言うことです。主イエス・キリストの十字架上での死をもって、私たちの罪をさばき、罪を赦すことで、神の救いの計画が、成就した、完了したのです。
キリストの苦難と死は、全人類の死と裁きを背負っての死でありました。
2011年4月17日