今朝、私たちは、十字架にかけられた主イエス様が、苦しみの中で語られた最後のお言葉を黙想します。通常、「十字架上の七言葉」と言われるもので、その中の二つを取り上げます。

 一つは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」(ルカ 23・34)

 人間の罪と愚かさに対する、主イエスの執(と)り成(な)しの祈りです。彼らは、自分が分からないだけでなく、今自分たちがしていることが分からないのです。群衆は暴動を起こし、人殺しをして繋がれていた暴徒バラバを釈放させ、イエスを十字架につけるように要求しました。彼らはイエスがどんな罪を犯したかも分からず、ただ「十字架につけろ。」と叫んでいます。彼らは罪のない方を十字架にかけて、殺そうとしていること。その事の重大性を少しも分かっていないのです。ここに人間の悲劇と愚かさを見ます。

 今一つは「すべてが完了した。」(ヨハネ19・30)という言葉です。口語訳聖書では「すべてが終わった。」とあります。これは「何もかも終わってしまった」「もう万事休す」という意味ではありません。ヨハネがここで語っているのは「十字架の上で苦悶する主イエスのお姿」ではなく、神の御旨に最後まで徹底して従い通されたお姿です。それは神の意志の成就、ご計画の完成です。つまり、神のご計画が、今やイエスの十字架の死によって実現、「救いの御業が完成された。」ということです。

 ローマが採用した処刑は、生きたままの死刑囚を十字架に釘づけにして幾日も放置するのです。十字架にかけられた犯罪人は、次第に衰弱し、窒息死するか、心臓破裂によって死がその苦痛を終わらせるまで、長い間苦しみを味わうという恐ろしいものです。

 主イエスの十字架は、一人の人間が敗北と挫折の中で悲惨な死を遂げた、というのではなく、その死において、新しい命の始まりの「時」となったことです。この死において神の人類救済の計画が成就し、キリストについての預言がすべて成就し、完了したという意味です。それはまた人を新しい生命へと呼びさまし、引き寄せる驚くべき神の愛の御業の完成です。

2009年4月5日