キリスト教は主イエス様の死人の中からのよみがえりをもって始まりますが、主のよみがえりは、弟子たちに期待され予定されていたのではありません。よみがえりは、驚きと恐怖そのもので信じ難い出来事でした。トマスのように「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と公言する弟子もいました。主のよみがえりの日の出来事を、聖書はマグダラのマリヤと、ほかの婦人たちが、早朝墓に急いで行ったところから記しています。
主イエス様が十字架に磔(はりつけ)にされた日は金曜日、アリマタヤのヨセフは、主イエス様のなきがらをもらい受け、まだ誰も葬ったことのない新しい墓所に主の屍(かばね)を葬りました。日没と共に新しい一日が始まります。
女たちは、夜明けと共に用意した香料を携えて墓に急ぎました。墓の入り口に置かれた大きな石が傍らにころがしてあるのに驚き、中に入ってみると主イエス様の屍がなくなっていました。墓は空っぽだったのです。一体何が起ったのでしょうか。墓の間違いではありません。あの日、確かに自分たちの目で主の葬られた墓所を見届けてから家に帰ったはずです。婦人たちは、空の墓を見て直感的に「だれかが主の屍を盗んだ」「どこかに隠してしまった」と考えました。きわめて常識的です。
復活の信仰は、主イエス様に対する、ある種の信仰や思い込みで生まれたのではありません。墓が空であることは、直ちに復活と結びつかないのです。一体何が起ったのでしょうか。恐怖と嘆きの中にある婦人に、主の使いが現れ「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24・5、6)と告げました。恐怖で口も利けなかった女たちは、気を取り戻すとすぐさまこの事実を伝えるために仲間の所に戻っていきました。復活の事実は、婦人たちの目撃証言を通して伝えられました。やがて同じように、復活の主の顕現に触れた弟子たちは、喜びと確信に溢れて、明らかにされた十字架の奥義と復活の事実を大胆に宣教するようになりました。よみがえりは福音宣教の根幹なのです。
2009年4月12日