新約聖書の中には「誇る」という動詞が35回、そのうち33回がパウロ書簡に、残り(わず)か2回がヤコブの手紙にあるそうです。また名詞の「誇り」は21回で、同じくパウロ書簡に19回出てきます。ちょっと読むとパウロはよほど気位が高くうぬぼれ屋と思われます。第二コリントなど読んでいますと「誇り」という言葉が随所に見られます。

 しかし、書簡の前後の文脈を注意して見ると、パウロは決して自分の才能や知識、学歴や家柄を誇っている訳ではありません。むしろ自分の弱さを誇ると告白しています。私たちは、なかなか自分の弱さを認めようとはしません。時には弱さを知って臆病となり、卑屈になって逃げ出したくなるものです。彼は一度だけ「言うのも恥ずかしいことですが、言わなければなりません。」(第二コリント11・21〜)と前置きして、「自分がキリストのために、どれほど多くの労苦を忍び、迫害に耐え、飢えに堪え、眠れぬ夜を過ごし、寒さに凍え、裸で過ごしたか」を記しています。宣教に命を賭けたパウロの誇りです。ところが「私の恵みは、あなたに十分である、というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(第二コリント12・9)という主の御声を聞いて、以後、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょうと告白しています。つまりパウロの誇りとは、キリストの誇りであり、弱さの中に働く神の恵みの誇りです。

 この世は弱い者が無視され、軽んじられ、切り捨て去られます。むやみに自分の弱さを人には見せられません。しかし信仰は弱さの否定でなく、むしろ自分の弱さを見つめ、弱さを自覚するところから始まるのです。弱さを知ることは、弱さに絶望したり自己卑下に(おちい)り、無為に過ごすことではありません。むしろ弱さを認めながら、その弱さの中に、また弱さを通して、そこに神の力が働くのであると受け止めるのです。パウロの誇りは、自分の弱さを神の恩寵(おんちょう)の働く場所と知って、その弱さを誇ったと言えます。
2005年11月13日