聖霊に与えられた呼び名は、ときに「真理の御霊」「助け主」「慰め主」で、旧約聖書(ヨエル2・28)の中で約束された神の御霊である。
この聖霊が注がれた日がペンテコステと呼ばれる日で、旧約聖書では七週の祭りとも呼ばれ、また過越しの祭りの翌日から数えて50日目に当たるところから、ギリシャ語でペンテコステ、五旬節(50日)と呼ばれるようになった。聖霊が真理の御霊と呼ばれるのは、聖霊が福音の証示者として世界の中に、また教会の中に、私たちの中に働いておられるからである。十字架の福音は歴史的事実で、客観的に起こった事件である。しかし、十字架の救いは聖霊によって証しされ、私たち一人ひとりが、それを受け入れ私自身の救いとなり、命となるのでなければならない。つまり、キリストによって完成した救いの事実を、私たちの内に主体的に生かすのが聖霊である。私たちは、この聖霊に促され、導かれて、自らの罪を悔い改め、救いのメッセージを喜ばしい福音として受け止めて、神のもとに立ち返る。そこに御霊の働きがあるからである。聖霊は、信ずる私たちの中に、教会の中に、今も生きて働いておられるキリストの霊である。
聖霊は、また助け主、慰め主とも呼ばれる。預言者エゼキエルは幻の中で、葬る者もなく、捨てられて、枯れた人骨の山を見た。それは、もはや生き返る可能性のない、堕落し、無気力となってしまった亡国の民、イスラエルの姿である。神はエゼキエルにこの枯れた骨に向って、語りかけ、働きかけよ、働きを止めてはならないと命じた。エゼキエルが枯れた骨に向って語り続けると、骨と骨が連なり、その上に肉が生じ、皮膚が覆い、やがてみ言葉の息が吹き込まれると、多くの群衆となって立ち上がったとある。聖霊の息吹で新しい生命が生じたという象徴的幻である。聖霊に運ばれる説教は、聴衆の心と魂に深く届き、慰めと力を生み出す。慰めの御霊は、弱さの中に深く沈んでいる人に勇気と慰めを与える。礼拝は神の息吹が全身に吹き込まれ、心と霊が聖霊によって刷新される場と言える。
2004年1月18日