「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」
(ピリピ2・6~7)
冒頭の聖句は、直接キリスト誕生にまつわる記事ではありませんが、クリスマスに拝読するのに相応しい聖句です。キリストは神の御子であられる方なのに、神としての特権を主張されず、徹底的に仕える者の生涯を歩まれました。キリストは貧しい者と共に生きるために、貧しさの中に生まれて来ました。それは、ただ家畜小屋に生まれてきたという事実だけが、イエスの貧しさを言い表しているのではないのです。家畜小屋は確かに貧しさの極みとも言えますが、聖書で言う貧しさは「貧乏」とは違います。イエス・キリストのご生涯そのものが、貧しさの意味で、私たち人間と同じ性質をとって生まれたということです。
山上の説教の中で「こころの貧しい者は幸いです。」とありますが、この貧しい者とは、もともと何かの理由で抑圧され、苦しみの中で打ちひしがれ、差別されながら、その苦しみにじっと耐えつつ神の助けを求めている者の姿、そのものを表す言葉です。キリストの貧しさとは、また、貧しくなられたとあるのは、何かの理由で差別され、踏みつけられ、悲しみの中に生きている人々の友となり、その人の傍らに身をおいて共に生きるために、私たちと同じ肉体をとって世に来られたということです。
神の救いを実現させるために、主イエス・キリストは自らの権利を主張されることもなく(放棄して)毛を刈る前のこひつじのように、黙々と神の導きとご計画の中を歩まれました。クリスマスは、イエス・キリストが、いま一度、人を神のもとに立ち返らせるために、罪人に代わって死ぬべくしてお生まれになったことを覚え、すべての人が「イエス・キリストは主である。」と告白し、父なる神をほめたたえ、キリストの来臨を心から喜び迎える時なのです。キリストは低きにつかれた神です。
2012年12月16日