本日は、私たちの教会の集まりに、ようこそお出かけ下さいました。感謝して、心から皆様を歓迎いたします。集会ではご一緒に賛美をしたり、聖書からのメッセージを聞いたりして頂きますが、是非リラックスしてお過ごし下さい。キリスト教はイエス・キリストを通して真の神を知り、神と交わり、神を喜び、また全ての時に身をもって神の栄光を現す信仰者の群れです。限られた認識能力しか持てない、生まれながらの人間の知恵と力によっては、神を諭し説明することは不可能ですが、へりくだった心をもって聖書を学び、聖書の証言を受け入れるならば、そこに天地の創造者なる神を見ることができます。

 クリスチャンは、イエス・キリストを救い主として心から受け入れ、信じています。説教の中で、しばしば人間の罪について語られます。罪は反社会的、反倫理的な行為ですが、聖書の罪は、元来、神との関係の中で問題にされる人間の在り方、神に対する身の置き方が問題とされます。確かに人間は自由な存在者ですが、決して目的や意味もなく、ただ浮き草のような存在ではありません。人間は神によって責任ある者として創造され、神の意志に従って行動し、愛し合って生きていかなければならないのです。しかし、現実はどうかと言えば、対立、争い、憎しみ、自己矛盾に満ちた生き方をしています。神を否定し、無視し、神をうとんじた生き方は、人間の本来あるべき生き方ではないのです。神との関係を断ち切って生きる時、人間は霊的に死んだ者、滅びゆく者となるのです。罪とは神の権能を犯し、自らを神とする無神論的な生き方を指しています。

 神はイエス・キリストを世に遣わし、キリストの身代わりの死をもって世の罪をあがない、神との和解を成就されたのです。和解は、本来、私たち人間が自らの罪を悔い、心を新たにして神に赦しを求めて、神に立ち返る行為ですが、神はそれに先だって、十字架において私たちの罪を裁き、それによって神との平和を成就されたのです。キリストにある神との和解と赦しを得ることで、神にある新しい生命に満ちた人生が始まるのです。

2005年9月25日