教会創立70周年を記念して2019年2月10~18日にかけて、イスラエルへ旅行してきました。その際撮影した写真をご紹介します。
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  • カイザリア

    地中海沿岸の港町カイザリアは、紀元前1世紀にヘロデ大王が築き、ローマ皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)に捧げて以来、この名で呼ばれている。ヘロデ大王の死後、ユダ王国がローマの直轄支配下に組み込まれると、カイザリアに総督府が置かれるようになる。イエスが処刑されたのは第5代目総督ピラトの時代であり、弟子ピリポは福音を告げ知らせながらカイザリアまでやってくる。ペテロが異邦人であるカイザリアの百人隊長コルネリウスを浸礼したのはそのわずか後のことであり、パウロはローマに船出するまでの2年間、この地に監禁されていた。

    2世紀以降は大司教区がおかれ、ローマ、ビザンチン時代を通じてキリスト教、ユダヤ教がさかえるが、639年アラブによる征服後、町は荒廃する。13世紀フランスのルイ9世は、十字軍支配下のカイザリアを難攻不落の砦に改築するが、その12年後にはマムルーク朝に惨敗、カイザリアの町は以後歴史から姿を消す。今日残っている遺跡のほとんどはこの時代と、のちの十字軍時代のものである。
    [写真1]はカイザリアから臨んだ地中海。
    [写真2]のローマ式導水橋は、ヘロデ大王の築いたカイザリアの町に水を引くために造られた。ヘロデ大王の時代はカルメル山の麓の泉から6kmにわたって走っていた。
  • ガリラヤ湖
    ガリラヤ湖は新約聖書の舞台において地理的に重要な役割を持っている。例えば、イエスに悪霊を追い出しもらったマグダラのマリアの故郷である「マグダラ」はガリラヤ湖の岸辺に数ある漁村の一つである。またガリラヤ湖を見下ろす丘の頂きには、イエスが山上の垂訓を語った場所と山上の垂訓教会がある。山上の垂訓教会はまた、イエスが12人の弟子を選んだ場所ともいわれる。

 また、海岸の階段の隣には、シモン・ペテロを召したとされる場所に立つ、ペテロの召命教会があり、[写真6]像が立てられている。イエスはガリラヤに帰って漁をしていた弟子たちに、復活後3度目に現れ、一緒に朝食をとった後、「わたしの羊を飼いなさい」と言ってペテロを召命する(ヨハネの福音書21:1-19)ガリラヤ湖の波が打ち寄せる場所に、フランシスコ修道会の建てた小さな教会がある。「タプハ」というこの地名は、ギリシャ語のヘプタペゴン(7つの泉)がアラビア語のタプハとなった。現在も泉が湧き出ている。
[写真7]鶏が3度鳴くまでにイエスを3度否認した像もある。[写真8]ガリラヤ湖のレストランでは、ペテロの魚が食事として提供されており、時々口にコインが挟まっている。

写真6 「ペテロの召命」
写真7 「ペテロの否認」
写真8 「ペテロの魚」
  • ゲッセマネの園

「ゲッセマネ」とはアラム語で油搾りの意。イエスが弟子たちとよく訪れた「いつもの場所」(ルカの福音書22:40)であり、処刑の前日に祈り、ユダの裏切りの接吻を受けてユダヤの権力者側に引き渡された場所。住む家を持たなかったイエスにとって、ベタニヤのマリア、マルタ、ラザロの家とともに、エルサレムでの最後の日々を過ごす場所となった。

  • ベエル・シェバ
    ベエル・シェバ(「誓いの井戸」の意)は、水を求めてやって来た族長アブラハムがここで、アビメレクと契約をしたことから名付けられた。写真は発掘現場なので、当時の生活様式しかイメージできないが、現在は発展が目覚ましく、活気あふれるネゲブ地方の主要都市となっている。